ハイデガーの『存在と時間』を読んでいると、「道具連関」という考え方が出てくる。
ハサミなら「紙を切るためのもの」、ハンマーなら「釘を打つためのもの」というように、私たちが物を理解するとき、それ単独の物体としてではなく、世界の中のさまざまな関係の中で理解している。
この考え方から、ふと気になることがある。
では、誰にも必要とされていないハサミはどうなるのだろう。
そして、これを人間にまで広げて考えると、さらに重い問題が出てくる。
たとえば、就職氷河期に何十社、何百社と面接を受けても採用されなかった人はどうだろう。
「社会の中で役割を与えられる」という連関から外れ続けた人間は、ハイデガーのいう「現存在」として、どのように世界の中に現れるのだろうか。
この記事では、この疑問を出発点に、ハイデガーの「道具連関」「現存在」「非本来性」を考えてみたい。
目次
- ハサミは使われることで「ハサミ」として現れる?
- 誰にも必要とされないハサミはどうなるのか?
- 「存在が立ち上がる」と「非本来性」は同じなのか?
- 就職氷河期世代をハサミにたとえると?
- 「100回面接を受けても受からない」という存在の現れ方
- 人間はハサミとは違う
- ハイデガーは就職氷河期のような人間を想定していたのか?
- ハイデガー自身も「居場所」がすぐに与えられたわけではなかった
- 世界の中に入れないなら、世界そのものを変える?
- 道具連関から考える「人間の存在」
ハサミは使われることで「ハサミ」として現れる?
ハイデガーの世界分析を考えるとき、道具の例は非常に分かりやすい。
机の上にハサミが置いてある。
それを物理的な物体として考えるなら、金属の刃と持ち手を持つ道具である。
しかし、普段私たちはハサミをそんなふうに眺めているわけではない。
紙を切ろうとして、
紙を切るためにハサミを使う
とき、ハサミは「紙を切るためのもの」として現れている。
さらに、
紙 → ハサミ → 工作 → 完成した作品
というように、ハサミは他の物や目的との関係の中にある。
これがハイデガーのいう道具連関、指示連関を考えるうえで重要になる。
私たちの世界は、単純に「物体が並んでいる世界」ではない。
最初から、
何かをするためのもの
何かと関係しているもの
として意味を持った世界が開かれている。
誰にも必要とされないハサミはどうなるのか?
ここから一つの疑問が出てくる。
物置の奥に20年間放置され、誰にも使われていないハサミがあったとする。
そのハサミには、もう道具としての連関がないのだろうか。
必ずしもそうではない。
誰かがそれを見つけて、
「これは昔、母が裁縫に使っていたハサミだ」
と言えば、そこには過去との関係が生まれる。
あるいは、
「このハサミ、錆びていてもう使えないな」
と気づけば、「使えないもの」として現れる。
つまり、ハイデガーの議論を、
誰かに現在必要とされているものだけが存在する
と理解するのは少し違う。
重要なのは、存在者が世界の中でどのような意味の連関に置かれているかということだ。
「存在が立ち上がる」と「非本来性」は同じなのか?
ここは特に区別が必要になる。
ハサミが道具連関の中で現れることと、ハイデガーのいう「非本来性」は別の問題である。
非本来性は、現存在がどのような仕方で自分自身の存在を生きているのかという問題だ。
ハイデガーは、日常の現存在が「世人(das Man)」の中にあることを分析する。
たとえば、
「普通はこうする」
「みんなこう考えている」
「世間ではこれが当たり前だ」
というように、自分自身で可能性を引き受ける以前に、「みんな」がすでに判断している。
これが「世人」の問題である。
したがって、
誰にも使われないハサミ
=非本来性
ではない。
道具連関の問題と、現存在の非本来的なあり方は、分けて考える必要がある。
就職氷河期世代をハサミにたとえると?
ここで、現代の社会に話を移してみる。
就職氷河期には、新卒時の労働市場が厳しく、希望する仕事に就けなかった人が多くいた。
この経験を、あえてハサミの比喩で考えてみる。
ハサミなら、
紙を切る
↓
「切る道具」として使われる
↓
道具連関の中に入る
という流れになる。
人間の場合なら、
学校を卒業する
↓
就職する
↓
職場に入る
↓
「会社員」「専門職」などの社会的役割を持つ
という連関がある。
ところが、何度面接を受けても採用されなければ、その連関に入ること自体が難しくなる。
ここでハサミとの決定的な違いがある。
ハサミなら、使われなければ単に使われないだけだ。
しかし人間は、
「なぜ自分は採用されないのか」
と、自分自身について考えてしまう。
「100回面接を受けても受からない」という存在の現れ方
「あの人は100回面接を受けても受からない」という言葉を考えてみる。
これは単なる就職活動の回数を表すだけではない。
その人が社会の中で、
「何度も面接を受けても採用されない人」
として現れている。
本来なら、
社員
新人
専門職
同僚
上司
など、さまざまな社会的連関の中で自己理解を形成する可能性がある。
ところが、そこに入れない期間が長くなると、
「自分は社会の中で何者なのか」
という問いそのものが変わってしまう。
これは、「存在が立ち上がる」という言葉をかなり重い意味で考えさせる。
人間は、自分一人で孤立して存在しているのではなく、世界の中で他者や物や制度との関係を通して、自分自身についても理解しているからだ。
人間はハサミとは違う
しかし、ここでハサミの比喩をそのまま人間に当てはめることには限界がある。
ハサミは「使われるためのもの」だ。
だから、使われなければ道具としての役割を失う。
しかし現存在は道具ではない。
人間は、
「誰かに必要とされる」
「会社で使われる」
「社会的な役割を果たす」
ことによって初めて存在するわけではない。
むしろ、ここにハイデガーの議論を現代から考え直す余地がある。
社会が人間を、
「何ができるのか」
「どんな仕事ができるのか」
「会社にとって役に立つのか」
という形で評価するとき、人間がまるで道具のように扱われてしまう。
すると、
「役に立たない人間」とは何なのか?
という奇妙な問いが生まれる。
しかし、そもそも人間を「何かのためのもの」と考えてよいのだろうか。
ハイデガーは就職氷河期のような人間を想定していたのか?
もちろん、ハイデガーが現代の就職氷河期世代のような社会状況を具体的に想定していたわけではない。
『存在と時間』が刊行されたのは1927年であり、ハイデガーの問題意識は20世紀初頭のドイツ社会や西洋哲学の状況を背景としている。
したがって、
「ハイデガーは就職氷河期世代の問題を予言していた」
というような読み方はできない。
しかし、現代から彼の哲学を読み直すと、
社会の主要な連関に接続できない現存在は、どのように自分自身を理解するのか?
という問いを投げ返すことはできる。
これはハイデガーが直接答えた問題ではなく、私たちが彼の概念を使って新しく考える問題である。
ハイデガー自身も「居場所」がすぐに与えられたわけではなかった
ここでハイデガー自身の若い頃を振り返ると、少し興味深い。
ハイデガーは1889年、ドイツ南西部のメスキルヒに生まれた。
20歳前後でフライブルク大学に入り、当初は神学を学んで聖職者を目指していた。しかし、その後哲学へと進路を変えていく。
博士号を取得し、教授資格を得ても、すぐに大学教授として安定した地位を得たわけではない。
その後、私講師として大学で教え、フッサールの助手を務め、1923年にマールブルク大学の教授となる。
つまり、
進路を変更する
↓
学問の世界に入る
↓
資格を取得する
↓
それでも安定した地位はすぐには得られない
↓
徐々に大学世界の中で位置を獲得する
という過程をたどっている。
もちろん、これをそのまま現代の就職氷河期と同一視することはできない。
時代も制度もまったく違う。
しかし、「人間が世界の中でどこに位置づけられるのか」という問題を考える材料にはなる。
世界の中に入れないなら、世界そのものを変える?
さらに興味深いのが、1933年のハイデガーである。
ナチ政権成立後、ハイデガーはナチ党に入党し、フライブルク大学の総長となった。
この時期、彼は大学やドイツ社会の新しい方向づけに積極的に関わろうとした。
その後、1934年には総長を辞任する。
ハイデガーのナチズムへの関与については、その後の哲学との関係も含めて現在まで議論が続いている。
ただ、ここで一つの問いを立てることはできる。
自分が世界の中で位置を得るだけではなく、世界そのものを変えようとしたらどうなるのか?
『存在と時間』の現存在は、単なる世界の観察者ではない。
現存在は世界の中に投げ込まれながら、その世界の中で可能性を引き受けて生きる。
1933年のハイデガーには、哲学者として歴史的な世界の転換に関与しようとする姿勢が見られる。
ただし、ここから「現存在の哲学がナチズムを必然的に導いた」と考えることはできない。
哲学上の概念と、ハイデガー自身の政治的判断は区別して考える必要がある。
道具連関から考える「人間の存在」
ここまで考えると、最初の「ハサミ」に戻ってくる。
ハイデガーの道具連関は、
ハサミ → 紙を切る → 工作する
というように、存在者が世界の中で意味を持つ仕方を考えるための重要な手がかりになる。
しかし、人間を同じように、
人間 → 働く → 役に立つ
と考えてしまうと、何かがおかしくなる。
人間は道具ではないからだ。
むしろ就職氷河期のような経験を考えることで、ハイデガーの議論から新しい問いが生まれる。
社会の連関から外れた現存在は、どのように世界を経験するのか。
誰にも必要とされていないと感じる人間は、それでもどのように自分の存在を理解するのか。
人間の存在を「役に立つ/立たない」という道具的な連関から考えること自体が、現代社会の問題なのではないか。
ハイデガーは、こうした現代の就職氷河期の問題を直接考えていたわけではない。
だからこそ、現代から彼の哲学を読む意味があるのかもしれない。
「存在が世界の中でどのように立ち上がるのか」という問いは、ハサミやハンマーだけでなく、社会の中で自分の居場所を見つけられなかった人間についても考え直すきっかけになる。
