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哲学はなぜ国語じゃなくて社会なの?日本の教育と世界の事例から考える

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哲学

哲学ってなんか国語っぽくない?

こんにちは! うさぎ先生です。今日は、日本の学校教育で「哲学」が国語ではなく社会科(倫理)で教えられていること、そして大学での哲学の位置づけについても、くまくんと対話形式で深く掘り下げていきたいと思います。みんなも「なんでだろう?」って思っているかもしれないわね。


日本の国語教育における哲学の現状

くまくん: 先生、日本の小中高の国語の授業で哲学は教えてないんですか?

うさぎ先生: 直接的に「哲学」っていう独立した科目が教えられることはないわ。ただ、道徳や総合的な学習の時間、あるいは国語の「探究的な学び」の中で、間接的に哲学的な要素が取り入れられることはあるわよ。正解のない問題について考えたり、みんなで対話したりする機会は設けているの。

くまくん: 国語の教科書の中にソクラテスやニーチェって登場するんですか?

うさぎ先生: 彼らの名前が直接的に出てきて、その思想が詳しく解説されることは今の教科書では滅多にないの。でも、高校の国語(特に現代文)の教科書では、彼らの思想に影響を受けた日本の思想家や文学者の文章が教材になることはあるわね。その中で、間接的に彼らの思想や、それを背景とする概念(例えば実存主義)に触れる可能性はあるわよ。


教員免許と科目の専門性

くまくん: 哲学って倫理の科目で、国語とは先生の免許も違うんですよね? 国語の授業で「現象学」とか出てきたら変ですか?評論文にありそうですよね?

うさぎ先生: うん、よく気づいたわね!その通りよ。倫理の教員免許と国語の教員免許は別物なの。倫理は哲学や思想を専門とする科目で、国語は現代文、古典、漢文などを専門とするわ。だから、国語の授業で「現象学」のような専門的な哲学概念が、倫理の授業みたいに本格的に扱われるのは、先生の専門分野からすると、少し不自然かもしれないわね。文学作品の背景として軽く触れる程度ならあり得るけど、深く踏み込むのは倫理の専門分野になるわ。

くまくん: 国語の授業で論理学って教えてるんですか? ヴィトゲンシュタインって人もそうですよね?

うさぎ先生: 「論理学」が独立した科目として教えられているわけではないわ。それに、「ヴィトゲンシュタイン」の名前が国語の授業に登場することも、あまり一般的ではないわね。でも、国語の授業では、論理的な思考力や表現力を養うことを目的とした学習内容が様々取り入れられているのよ。これは、広い意味で論理学的な要素を含んでいると言えるわね。文章の構成や主張と根拠の区別、批判的思考などがその例よ。ヴィトゲンシュタインは言語哲学の重要な哲学者だけど、彼の専門的な思想を高校の国語で直接扱うことはないわ。


論理的思考は様々な科目で

くまくん: 最近聞く論理的に考える力って、どの科目で身につけるんですか? 英語とかですか?

うさぎ先生: 論理的に考える力は、現代の教育でとても大切にされていて、特定の科目だけでなく多くの科目で意識的に取り組んでいるのよ。英語もその一つね。

  • 国語: 文章の論理的な組み立てを理解したり、自分の考えを論理的に表現したりするわ。
  • 英語: 英文を読んで筆者の論理を把握したり、エッセイを書くことで自分の考えを論理的に示したりするの。
  • 社会科: 歴史や社会の出来事の因果関係を分析し、論理的に理解するわ。
  • 理科: 実験結果から論理的な結論を導き出したり、科学的な仕組みを論理的に説明したりするわね。
  • 数学: 問題を解く過程で、与えられた情報から論理的に推論を進めていくわ。

このように、様々な科目で論理的に考える力を養う機会があるのよ。


なぜ哲学は「社会(倫理)」に位置づけられているのか?

くまくん: いつか、実は哲学は社会じゃなくて国語の領域になる将来ってあるんですか?

うさぎ先生: 短期的には難しいけど、可能性はゼロではないわね。哲学は言葉と論理に深く関わるから、言語能力を育む国語との親和性は高いわ。探究学習が深まれば、哲学的な問いを考える機会も増えるでしょうね。

くまくん: いずれ国語に哲学が編入して、倫理って社会の免許がなくなる将来ってあるんですか?

うさぎ先生: うーん、それは今のところ、とても考えにくいシナリオね。

  • 国語に哲学を編入する難しさ: 哲学はとても専門的な学問だから、国語の先生が哲学の専門知識を教えるには、先生を育てる課程や免許制度自体を大きく変える必要があるわ。それに、国語が本来持っている、日本語の読解力や表現力を育てるという大切な役割が薄れてしまう可能性もあるのよ。
  • 倫理という科目の重要性: 倫理は、哲学だけでなく宗教や文化、現代社会の倫理問題など、人間が社会でどう生き、どう判断すべきかを総合的に学ぶ科目よ。社会が複雑になる中で、倫理的な判断力を育てる倫理科目の重要性はむしろ増しているわ。この「社会と人間の生き方」に直結するという点が、倫理が社会科に位置づけられている大きな理由なのよ。

だから、倫理が社会科の独立した科目としての重要性を失って、免許がなくなることは考えにくいわね。


日本の大学で哲学が文学部に所属する理由

くまくん: でも、大学だと哲学って文学部にあることが多いですよね?それって矛盾じゃないんですか?

うさぎ先生: いい質問ね!高校と大学での「哲学」の扱いの違いは、決して矛盾ではないのよ。それぞれ目的が違うから、所属も異なるの。

  • 大学の哲学科(文学部): 大学の文学部にある哲学科は、哲学を学問分野そのものとして、その歴史、理論、概念を深く専門的に研究・教育する場なの。認識論、形而上学、論理学、美学、倫理学、政治哲学など、多岐にわたる分野を網羅し、研究者や専門家を育てることを目指しているわ。文学部が「人間とは何か」「人間が作り出した文化とは何か」といった、人文科学的な探究を主とする学部だから、その根源的な問いを扱う哲学が所属するのはとても自然なことなのよ。
  • 高校の「倫理」(社会科): 高校の倫理は、哲学・思想を教科として、生徒が身につけるべき資質・能力の育成のために教える場。学術的な研究よりも、生徒が人間の生き方や社会のあり方について多角的に考察し、自らの価値観を形成し、倫理的な判断力を養うことを重視しているの。そのために哲学的な思考法や主要な思想が用いられるわ。

つまり、大学は「学問の探究」、高校は「教育目標の達成」というそれぞれ異なる目的があるため、学問分野の専門性と教科の目的性が異なる分類になるのは自然なことなのよ。


他国の哲学教育:フランスの事例

くまくん: 他の国ではどうなってるんですか? フランスとか。

うさぎ先生: フランスは、高校の哲学教育がとても特徴的なの。

高校の最終学年では、文系・理系関係なく、哲学が必修科目なのよ。文系は週に8時間、理系でも週に4時間も哲学の授業を受けるの。そして、大学入学の資格試験である「バカロレア」では、なんと試験初日に4時間ぶっ通しで哲学の筆記試験が課されるのよ!これは、単に知識を問うのではなくて、論理的に考え、自分の意見をしっかり論述する力を求めている証拠ね。フランスには「哲学(Philosophie)の教員免許」っていう独立した免許があって、専門の先生が哲学を教えているの。

くまくん: フランスだって高校3年でちょっとだけなんだね。

うさぎ先生: いえいえ、日本の感覚からすると「ちょっとだけ」どころか、ものすごく手厚いと言えるわよ! 週に4時間や8時間も哲学の授業があるなんて、日本では考えられないでしょう? バカロレアでの比重も圧倒的よ。これは、フランスの教育が、哲学を「考える力」を養うための中心的な訓練だと位置づけているからなの。


初等教育における哲学の萌芽

くまくん: じゃあ、古代ギリシャからの哲学を小学生から教えている国は少ないってことですよね? 日本はおろそかにしているのはわかっているんですけど。

うさぎ先生: はい、その通りよ。古代ギリシャからの哲学史を、小学生(初等教育段階)から体系的に教えている国は、世界的に見ても非常に少ないわ。哲学は抽象的な内容が多いから、小学生の認知発達段階には少し難しいとされているのね。

ただ、近年では「子どものための哲学(P4C: Philosophy for Children)」という取り組みが世界的に広がっているの。これは、哲学の歴史を教えるのではなくて、「友達って何?」「なんで勉強するの?」といった身近な疑問について、子どもたちが対話を通じて「哲学的に考える」ことを促すものよ。これは、哲学的な「問い方」や「考え方」に重点が置かれているのね。


哲学の現代的受容:応用と対話

くまくん: 哲学ってなんか「○○の哲学」とか「哲学対話」みたいに、応用とか対話だけがメジャーってことですか?

うさぎ先生: 「マイナー」という表現には少し誤解があるかもしれないわね。哲学は、実はすべての学問の基礎とも言える、非常に重要な位置を占める学問なのよ。

ただ、哲学はあらゆる分野(科学、芸術、政治、倫理など)の根源的な問いを扱うから、「科学哲学」「倫理哲学」のように、「○○の哲学」といった形で、それぞれの分野での深い思考の基礎となる側面が注目されやすいの。それに、「哲学対話」は、専門知識がなくても「考えること」を体験できるから、多くの人にとって身近で、メジャーに映るのかもしれないわね。

もちろん、大学の哲学科で学ぶような、複雑な哲学史や高度な議論は難しく感じるかもしれないけど、哲学の本質は決してマイナーなものではないわ。


哲学史の知識と対話の深さ

くまくん: なんとなく哲学的に社会問題について語り合うって言っても、ギリシャからの考え方が頭に入ってないと無理じゃないですか?何も語り合えないですよね?

うさぎ先生: 鋭い指摘ね。結論から言うと、必ずしもギリシャからの哲学史を網羅的に知っている必要はないわ。 でも、哲学的な「考え方」や「問い方」が頭に入っていることは、意味のある語り合いをする上でとても大切よ。

「正義とは何か?」「差別はなぜ起こるのか?」といった問いは、哲学史の知識がなくても、私たち自身の経験から自然に生まれてくるものよ。そして、「哲学対話」のように語り合う目的は、問いを深め、多角的な視点から物事を捉え、自分の考えを明確にすること。そのためには、言葉の意味を掘り下げたり、前提を疑ったり、論理的な根拠を示したりする「思考の型」が重要で、これは知識がなくても実践できるのよ。

もちろん、哲学史の知識があれば、思考の「ツールボックス」が豊かになって、議論がより深く、広がりを持つことは間違いなくあるわ。

くまくん: なるほど。そしたらソクラテスの真似をしているだけだね。

うさぎ先生: そう捉えることもできるわね。実際、哲学対話の基本的な姿勢や方法は、ソクラテスが実践した「問答法」に深く根ざしているの。安易な答えに飛びつかず、問いを深く掘り下げて考える姿勢は、まさにソクラテスから学んだものと言えるわね。

でも、これは単なる「真似」にとどまらないのよ。私たちはソクラテスの方法論を、現代社会の複雑な問題に応用して、自ら思考し、対話し、より良い社会を築いていくための有効な手段として活用しているの。ソクラテスは、その出発点を与えてくれた偉大な哲学者だと言えるわね。

くまくん: ソクラテス風の問答法だけが一人歩きして、哲学の本は誰も読まないってことですか?

うさぎ先生: うーん、「誰も読まない」というのは少し言い過ぎかもしれないわね。確かに「哲学対話」のように手軽なアプローチが広まって、哲学書を読むことはハードルが高いと感じる人も多いでしょうね。

でも、大学の哲学科ではもちろん深く読まれ、研究されているし、本屋さんにはいつも新しい哲学書が並んで、古典も版を重ね続けているわ。専門書は難しいけれど、わかりやすい入門書もたくさん出ているわよ。

問答法は「考える筋トレ」のようなもの、哲学書を読むことは「その筋トレの理論や、先人がどんな成果を出したかを知る」ことよ。どちらも哲学的な思考を深める上で大切で、互いに補い合っているの。現代では、様々な形で哲学に触れることができるようになっている、ということね。


まとめ:日本の教育と哲学のこれから

今回の対話で、日本の教育における哲学は、高校では社会科(倫理)、大学では文学部に位置づけられているけれど、それぞれの場所で、「思考力」「判断力」「表現力」を育てる上で哲学的な考え方がとても大切であるっていうことが見えてきたわね。

哲学は私たちに、物事の本質を問い、論理的に考え、そして多様な価値観を理解する力を与えてくれる学問よ。これからも、くまくんが「考えること」の楽しさや奥深さに気づいてくれると嬉しいな!


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